長崎に原爆が落ちた日

 私は小学生から中学生の間、夏休みのほとんどを長崎市内に住む父の12歳上の姉、つまり叔母の家に預けられていました。どんな理由かはよくわかりませんが、理由の1つは、10歳上のいとこが夏休みは施設から自宅に帰ってくるからだったんだと思います。叔母は、小学校の近くで駄菓子屋さんをしていました。夏休みはとても忙しいわけです。

 いとこは、出生時死産だったそうで、祖母が血まみれの体がかわいそうだとちょっと熱めのお湯で、体を洗ってあげたところ、鳴き声を上げたんだそうです。体に麻痺が残り、知的にも少し遅れがあって、当時の養護学校に通っていましたが、高等部を卒業し、施設に入っていたようです。夏休みは実家に戻って、叔父や叔母、兄や姉と過ごす時間をたくさんとれるように、私は夏休みに店番と掃除の手伝いをしていました。

 毎年夏休みには近所の小学生がやってきて、ラジオ体操にも呼ばれるようになって、仲良くなって、毎日店番と言いながら、お菓子も本も(雑誌も売っていたのです)食べ放題読み放題に近かったので、天国でした。晩御飯は料理上手な叔母が、長崎の海産物(蟹が多かった)を食べさせてくれました。叔母は三味線や琴もたしなんでいたので、教えてもらったり…。

 毎日本当に楽しくて、毎日あっという間に過ぎていきました。そんな長崎市での毎日が特別になるのが、8月9日でした。その日は登校日で、いつも買いに来てくれる小学生たちは1人も来ません。サイレンとともに黙とうし、街が静かになります。今でもそうなんだろうか…。私もクリスチャンのいとこと一緒に教会でお祈りをします。私は、長崎で「祈る」ということを学んだんです。当時は街中が「祈る」あの独特な感じが、とても特別でいいものだと感じていました。

 長崎の原爆は3日前に落ちた広島の原爆の1.5倍の威力だったそうですが、山に囲まれていたので、被害を受けた地域は限られたそうです。でも、市民の半分以上が亡くなり、建物はほとんどなくなって、平地になってしまったそうです。広島の原爆ドームのようなものは長崎にはないんですね。…なんて話も聞いたりして。本当は小倉に落ちるはずが、天候が悪くて、造船所のある長崎がターゲットになったんだとか。これはずっと後で知ったことです。小倉に落ちていたら、被害はどれだけ大きかったでしょう。今私が住んでいる地域にも被害があったかもしれません。

 叔父は当時は中学生で市内(といっても、長崎市の端っこですが)に家はあったけれど、その日は市内にいなかったそうです。ただ、親族には亡くなった方も多いようで、お酒好きの豪快で楽しい人でしたが、あまり多くは語ってくれませんでした。

 私の両親はちょうど戦争が始まったころに佐賀県で産まれています。祖父母は戦争真っただ中に30代だったことになります。どちらの祖父も戦争には行かず、炭坑や工場で働いていたようです。いつ終わるかわからない戦争の最中に子どもを育てるのはとても大変だっただろうなあ。佐賀県は長崎のお隣です。あの日どんなことがあったんだろう。そんなことを祖父母にもっと聞いておけばよかったなあと今は後悔しています。話してくれなかったかもしれないですけどね。

 ただ、今日は長崎の人々とともに「祈り」をささげたいと思います。現在の平和が74年前のあの悲劇の上にあることを忘れないでいたいと思います。