わたしの運動会

今週のお題「運動会」。

 運動会は大好きな行事の一つです。体を動かすのが好きなので、運動会は好きでしたね。別に足が早いわけでもないです。よーいどんの緊張感がいいんです。

 私は小学校4年生から中学3年までずーっと放送委員でした。アナウンスではなく技術系の。運動会は放送委員にとっても晴れの舞台です。音楽やアナウンス原稿の準備に読み合わせ、機材のチェックや配線・設置…仕事は山盛りです。「選手入場」の掛け声や行進のアナウンス、開会式のアナウンスを任されることもあります。静粛な中でのアナウンスは緊張と感激が入り混じって何とも言えない感じです。

 というわけで、私は6年間は入場行進をしたことがありません。入場行進が一番苦手な競技かもしれません(笑)徒競走はいつも2番か3番。障害物競走も2番か3番。リレーはいつも最後の1人に選ばれるので、それだけはちょっと嫌でしたね。だって選手ではビリってことですから。迷惑かけないように家に帰って練習してましたね。

 中学でも放送委員だったのですが、3年生の時、先生たちから「運動会は全部3年生でやってね」って言われて、本当に3年の生徒会と応援団の子たちが中心で全部やってました。競技の企画や準備から実施まで。放送委員も配線・設置やりました。柱上ったり屋上行ったり、今ではちょっと考えられないですけど。先生方はただ見てるだけ。何も言いません。これって案外大変なことだと今はよくわかります。

 運動会が終わったとき、涙出てきましたね。やり遂げたなあって。自分たちだけでできるもんなんだって。それから3年が運動会をやるのが恒例になったみたいです。3学年下の妹が、「姉ちゃんたちがやってしまったから、私たちもやらんといけん。面倒や~。」なんて言ってましたね。今はどうなんでしょう。

自立って何だろう?

 高校教師って仕事をしていると、「自立って何だろう?」って考えることも多いです。私自身は「自立」って言葉をそれほど意識せずに生きていたので、きっと両親や恩師の方々がうまいこと転がして大人になっていけたんだと今は思います。

 生徒たちの中には、ご家族や先生方のお蔭かとてもしっかりと自分の足で立ってる、実にちゃんと自立している生徒もいるわけです。「素晴らしいなあ!私も万が一子どもが生まれたらこう育てよう!」なんて、結婚する気のなかった私は、2人の子の親になって、右往左往しているわけです。

 15年前、今の学校に転勤してすぐ驚いたのは、事細かに指示を出す、先生方のきめ細かな心配りでした。正直そこまでしなくてもって思ったものです。でも、うちの生徒はそこまでしても動かなかったりするわけで…。学校によっていろいろだなあと思ったものです。それからすれば、私はさほど親や先生から支持されることなく動けていたかなあと(進路以外は)思ったわけです。特に学ぶことに関しては、実家の両親は「勉強しなさい。」の類は子どもである私たちに言ったことはありません。でも、兄弟4人どちらかといえば勉強はできたほうです。言われなくても宿題はもちろん予習や復習は授業が分かるためには必要で、勉強はできないと、器量もよくない特技もない自分は食っていけないと、読書も勉強もよくしていたと思います。

 なんでだろう。子どもが生まれたとき、特に次女が生まれたとき思いました。「勉強しろ」と言わずにどうして自分で勉強する子どもを育てたんだろううちの両親??

 答えはよくわからないです。ただ、次女には、たくさんの経験をして自分の良いところも悪いところもちゃんと知って、自立してほしいものだと思っています。決して親の私たちが彼女の可能性を狭めてしまわないように…。今のところしっかり自分の意見を言う分口喧嘩は絶えないです。でも議論することはいいかなあと思ってます。良いことはよいと、いけないことはいけないと言えなきゃ親じゃないと思っているので…。ただ、それを他人にやったら友達いなくなりますねえ。さすがにやってないでしょうけど。「自立」への道はまだ険しそうです。

わが家のノーベル賞

 今年のノーベル賞が発表されました。ちょうど私が生まれる10数年前に日本人が初めてノーベル賞を受賞し、ずっと受賞できない時期が続いていました。だから私たちの小さい頃は、ノーベル賞ってものすごくすごいものだと教わってきました。そのノーベル賞を50年ちょっとの間で日本人が26人も受賞しています。凄いです。

 でも、ノーベル賞ってオリンピックで金メダル取るよりも、本当に遠い存在っていう気がしていました。私の中では…。

 ところがです。出勤・登校のあわただしい中ただ流れているだけのNHKのニュースで、今年のノーベル賞医学生理学賞を日本人が受賞したとニュースが。「めでたいことだ。なんだって?癌の治療薬?凄いなあ。」なーんて思いながら聞いていました。そのうち、受賞者のプロフィールが…。「…山口県…」。「ん?」と私と次女がテレビを覗き込みます。「今山口県って言ったよね?山口の人なん?」と次女。「いやー京大って言ってたよ。」と私。「じゃあ高校が山口!」と二人。

 そこで私が「×高かなあ?」と私の母校の名前を言うと、次女が「医学だから私の学校だよ。」と言います。何だか負けたくない私は「いやー×高でしょう。」。次女が調べるとあっさり次女の先輩であることが判明します。負けました。

 と、一気にノーベル賞が身近になったお話しでした。来年次女の学校は100周年を迎えます。記念講演はたまたま本庶教授だったそうです。受賞当日にはお祝いの掲示板も貼られていたそうです。報道も来ていて、次女は危うくインタビューされそうだったと言っていました。

 同窓となる次女は、「凄いなあとは思うけど、遠い存在過ぎてピンとこない。」そうですが、なんだか悔しい私。その日は定期テストだった次女は、朝の担任のお話がテストが気になってよく覚えてないそうですが、「先生は、うちの卒業生じゃないんだなあって思った。凄く奇跡的なことなんだからみたいな…悔しそうな感じだった。」なんて言ってました。私とおんなじだ!先生はどこ出身なんだろう?なんて私は思いました。

 今までの受賞者のうち、ほとんどが京都や東京の出身者で、山口県ゆかりの方もいないような…。そんな中、山口県でしかも中学は長女と高校は次女と同じ学校で時を過ごされた大先輩がノーベル賞を受賞されたことを家族そろって喜んでいます。

600スター獲得記念!私のスター⑥

 6回目になりました。私のスター。私が好きになった人たちを紹介しているわけです。いつまで続くだろうか…。ずっと続く気がする(笑)

 1988年にソウルオリンピックを大学生だった私は、バイトでためたお金で一人ツアーに参加して見に行ったお話は以前もしたんですが、そのきっかけは、男子バレーなんです。70年代後半ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得するなど、大活躍していた全日本バレー男子は、80年代もよくテレビで中継されていました。

 私がよく見ていた頃は、田中幹保さん、杉本公雄さん、川合俊一さん、熊田康則さん、井上謙さんといったスター選手がいて、女の子がキャーキャー言ってました。今監督をされている中垣内さんや真鍋さん、植田さんはその少し後の世代になります。

 その頃のセッター下村英二さんの大ファンだったんですよ。下村さんは名セッターといわれた猫田勝利さんと同じJT(専売広島)のメンバーでした。188cmで、スパイクも打てるセッターでした。

 高校生の頃の私は、バレーの授業で、トスを上げるのが上手にできなくて、全日本の試合を見ているときセッターをいつも見ていました。指に当たっているかあたっていないかのタイミングで、あげられるトスがとてもきれいで、「あの人は誰なんだ!」って調べたら、広島のチームの人で、もっと近くで見たいなあと思い、私は、広島県バレーボール協会に電話を掛けました。そこで、協会に入ることを勧められて入っちゃいました。それからは、毎シーズン試合の案内が来るようになって、広島・山口で行われるJTの試合はもちろん。全日本の試合もいつもベンチのすぐ後ろの特等席を買うことができるようになりました。何度も握手してもらいました。いや~今の嵐ぐらいつぎ込んでましたね(笑)

 近くで見ると、だんだんバレーが面白くなってきました。それに、日本の選手もですが、海外の選手は手足が長いし、背は高いしで、もうパリコレのモデルさんみたいで、今でいうイケメンも多くて。で、オリンピックまで追っかけて行ったわけです。

 ソウルの蚕室(チャムシル)の体育館で運よく全日本の試合を見ることができたときは、本当にうれしかったです。5位6位決定戦だったかなあ。負けちゃいましたけど。

 最近はオリンピックに行くことも難しくなっている全日本ですが、野球やサッカーだけでなくいろいろなスポーツにうまいこと子どもたちが興味を持ってくれるといいんですが…そんなにうまくいかないですよね。

先生になると決めたときのこと

 うちの長女は小さいころからずっと「コーヒー屋さんになる」と言い続けてきました。その夢をもうじきかなえる予定です。次女はと言えば、小さいころは「CAになる」と言ってましたが、思いのほか背が伸び悩み、「先生でいいや」と失礼なことを言うようになり、昨日は「社長になる」って言ってました。どうやらおじいちゃんの会社をのっとるつもりらしいです(笑)

 私はと言えば、小さいころパイロットになりたかったのですが、当時は女子はなれなくて、夢を見るのはあきらめてしまいました。何もなりたいものがないまま、とりあえず大学の経済学部に行って、OLになるんだろうなあと思っていたのですが…。

 高校の先生に半分だまされて(先生ごめんなさい)、教員養成コースに進んでいた私は、教育実習しなければ卒業できない状況でした。申し訳ないですが、仕方なく恩師を頼って高校に教育実習に行き、高校・大学の先輩でもある先輩教員に指導教官になっていただき、まあ単位は安泰という感じだったわけです。

 そんな私でも、当時2年生だった生徒たちは、とても優しく温かく迎えてくれて、「ゼッタイ先生になって戻ってきてね」と涙ながらに別れました。本当に大変だけれど、夢のような2週間でした。途中で念のために手にしていた採用試験の申込用紙にあわてて記入して、締め切りギリギリに申し込みをして、睡眠時間3時間、21時間勉強して、合格することができました。それどころか、実習に行った学校で、3年生に進級した生徒たちを正規の教員として教えることができました。神様に感謝しました。

 留年していた私の22歳の6月、私は先生になると決めました。チャンスは1度。ダメだったらすっぱりとあきらめて、大学院に進むか就職活動をする(まだしてなかった…)。そう決めたあの時が自立のときでした。

 それまで、なかなか将来のことを決めきれないでいた私を、当時、両親はかなり粘り強く見守ってくれました。うちの両親のえらいなあと思うところは、ちゃんと子どもの事を見守ってくれているところです。最後の決定は必ず自分でさせてくれるところ。口を出さないところです。だからって放任ではないのが、信頼して待っててくれているのが伝わってくるところです。私もそうなりたいと、常々思っているのですが、ついつい口を出しそうになるんですね。難しいです。

倚りかからず

 「自分の感受性くらい」という詩で有名な茨木のり子さん。私の大好きな女性の一人です。その茨木さんの詩に「倚りかからず」というのがあります。

 「自分の…」もそうですが、この詩も「自立」を強く潔くつづった詩で、この詩を読むたび、私はまだまだだなあと、胸が痛くなります。

 椅子の背もたれ以外には、どんな思想にも宗教にも学問にも権威にも倚りかからず、自分の二本の足で、しっかりと立てるように、自分をしっかり見つめていきたいものです。私も50過ぎましたから、そうでなきゃね。

 

倚りかからず (ちくま文庫)#わたしの自立

 

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家を追い出されたこと

 わたしの自立ですか。私は小・中学校はもちろん自宅から通い。高校も父の車で自宅から通い。大学も自宅から自分の車で通い。就職してからも自宅から通いました。炊事も洗濯もお掃除もほぼ母任せ…。就職してからはほんの少しお金を入れていましたが、それを言い訳にして、家事には一切手を出さずといってよい大人になっていました。

 以前ブログにも書いたように、あわよくば結婚せずのんびりと過ごそうと思っていた私の心の内を見透かした父に「お前出ていけ」って言われました。それが、26歳でした。

 家を建て替えることにした我が家は、私が空いていた教員アパートを借りて、同居することになりました。新築の家に引っ越しの荷物をまとめていた私に父が言ったのが先ほどの言葉です。このまま母と暮らしていると私はきっと結婚しなくなると父は思ったんだそうです。ということで、一人で教員アパートに住み続けることになった26歳が私の自立の瞬間ですね。

 電話・電気・ガスの契約。年に数回のアパートの掃除に自治会。今まで私が全くタッチしてこなかったあんなことこんなことに、振り回され、毎日の食事に始まる家事全般も苦痛で苦痛で、更に結婚なんかしたくないと思ったものです。全く自立していない26歳の私でした。お恥ずかしい…。